「ラトラ様。お菓子を、お持ちしました」
執務中の休憩にと、ゾフィと一緒に焼いた菓子が盛られた皿をラトラの執務室に運びながら、ルイエが顔を出した。シュライワの統治も始まってからはレンブルク城に通うラトラ配下の人間が増えた。しかし、今日はめずらしくラトラ一人だけだ。尋ねると、「今日は休日だ」とラトラが苦笑する。
「ラトラ様はお休み、しないのですか」
ルイエが小首を傾げると、「報告書を読んでしまいたい」と返ってくる。机の空いているところに皿を置いてしまうと、ルイエがこの部屋でラトラにできることは終わってしまった。ルイエができることならなんでもラトラのために頑張りたいと思っているが、神獣が人の政治に深く関わることは良くないことなのだという。ルイエのように、今は大した異能を持っていない神獣でも、意図して人々の暮らしや国の行方を変えてしまう危険性があるからだ。
せめてもと思い、萎れてきていた部屋の花を、持ち込んだ別の花に取り替えると、ほんのりとした花の良い香りが漂った。ルイエが最近庭で育て始めた花で、これも人の気持ちを和ませる効果があると聞いている。今日はいないけれど、ラトラの執務を手伝っている配下の人間たちも喜んでくれるので、ルイエは花を欠かさないようにしていた。
「ルイエ。おいで」
花を飾り終えてから、ラトラの邪魔にならないようにと部屋を出ようとしたところで、ラトラに呼び止められた。書類から目を離さないまま、手招きをされる。嬉しくて思わず大きな尻尾を揺らしてしまったが、ラトラは仕事中だ。邪魔にならないようにとすました顔でラトラの傍に近づくと、ひょいと膝の上に乗せられてしまった。
「ら、ラトラ様?!」
ルイエが慌てていると、「ああ、やはり」とラトラが微かに笑う気配がする。
「ルイエもゾフィと一緒に菓子を作っていたのだろう。甘い匂いが、ルイエからもする」
「あの、お味……変ではありませんでしたか? ちゃんと、ゾフィさんと一緒に味見もしたのですが……」
実を言うと、思った以上に上手にできたので、パクパクと味見が止まらなかったのだが。ルイエの耳元でまたラトラは笑うと、「とても美味しかったよ」と返してくれた。
「もう少しで終わるから、このまま待っていてくれ。終わったら私も外の空気が吸いたい」
「はい!」
元気よく返事をした後は、ラトラの負担にならないようにと狐の姿で大人しくしていた。静かな部屋の中。時折窓から風が入って部屋の飾りを揺らす音と、ラトラが書類をめくる音だけがする。お菓子をたくさん食べた上に、ラトラの膝の上でぽかぽかとなったルイエはつい居眠りをしてしまった。
――いい、匂いがする。
ふと目を覚ましたルイエは、まだ自分がラトラの膝の上にいることに気づいた。しかし、いつの間にか人に似た姿に戻っていて、脱げてしまった自分の服の代わりに――ラトラの上着が、かけられている。
「あっ、ラトラさま、ごめんなさい……!」
「謝るようなことは、何もなかった。ルイエの寝顔をずっと見ていられたしな」
そう言って微笑んだラトラに口づけられる。照れ笑いしながらも、ルイエはラトラが片付け終えた書類の束を見やった。
「……おれが神獣じゃなければ、もっとラトラ様のお手伝いができるのに」
ずっと、思っていたことを口にすると、ルイエの髪にラトラの手が触れてきた。
「私も、ルイエが神獣じゃなかったら、と思ったことがある。そのことで天を呪ったことすら。……だが、お前が神獣でなければ、あの日出会うこともできなかった。ここまで分かりやすく、はっきりとした結びつきを得ることもまた、できなかった。第一、私の話し相手がまともに務まるのはルイエだけだ。他の者たちも、お前がいることに日々感謝していることだろう。レンブルク領とシュライワ領が平和なのは、偏屈辺境伯の神獣のお蔭だと」
「ええ? そうでしょうか」
そうだ、とラトラに重ねて言われて、ルイエが首を傾げたところで、はだけたままのルイエの胸元――契約の証が刻まれたそこに、ラトラが口づけを落とす。くすぐったいとルイエが笑ったところで、ラトラも穏やかに笑い返してきた。
「ラトラ様、お外に行きますよね? お仕事が忙しい間に、また少しお庭に工夫してみたので、ご案内します!」
ここぞとばかりに、張り切って再び狐に変じたルイエは、ラトラの膝から床へと降りる。尻尾を大きく揺らしながらラトラを仰ぎ見たが、はしばみ色の視界に映ったのは苦笑するラトラだった。
「……そこで狐の姿になるのが、ルイエらしいな」
「お嫌でしたか?」
もしかして、実は狐の姿は好きじゃないのだろうか。慌てて前足を使って尻尾をかき寄せたルイエだったが、片膝をついたラトラに耳のあたりを撫でられて、気持ちの良さに目をとじてしまう。
「狐の姿では、手を繋いで歩くことができない」
「えっ、あ……あの……!」
狐の姿のままであたふたとしていると、ラトラに抱き上げられてしまう。「ん?」と微笑むラトラの顔を間近に見て、ルイエは顔を赤くしたまま人の姿へと戻るのだった。
Fin.