『美味しいお菓子のお供え、いつもすまないな』
すまないとは思っていないだろう暢気な口調で、オコジョが膨らんだ小さなお腹をぽんぽんと叩いた。このオコジョは、レンブルク辺境伯領にもかかっている『黒い森』の主だ。主とはいえ、それの本性が実際は何なのか、ラトラにも分からない。竜や猛獣などにも姿を変えることができ、色々な術を操る魔獣である、ということくらいだ。
すっかりと城に居着いてしまったオコジョはすっくと立ちあがると、『今日は機嫌がいい』とのたまう。ラトラの膝の上で昼寝しかけていたキツネ姿のルイエの耳が、ピクリと動いた。
『ようし、せっかく午睡の時間だ。一番見たい夢を、見せてやろう』
『夢、ですか?』
眠たそうだったルイエの瞳が、好奇心によって光り輝く。「遠慮する」とラトラは断ったけれど、『遠慮するな!』とオコジョは豪快に笑った。
(嫌な予感しか、しないのは気のせいか)
一番見たい、とはどういう意味なのか。わくわくと身を乗り出したルイエの大きな狐尾が、ラトラの頬に触れてくすぐったい。それはそれで可愛いのだが、ルイエがまた変なことに巻き込まれないかがラトラは心配だ。
『ちょっと寝て、夢を見るだけだ。安全快適、どりーむつあー!』
『どりーむ……?』
ルイエの小さな頭が傾ぐ。身を乗り出していた狐姿の伴侶を己の膝の上にすっかりと戻すと、ラトラはオコジョ姿の魔獣を睨みつけた。
「変なことに、私のルイエを巻き込まないでほしい」
『ふっふ。ルイエが絡むと、途端にせっまい男になるねえ』
ラトラ様、とルイエが振り返ってきた。猫にも似たまん丸な、ルイエの美しいはしばみ色の瞳が数度瞬きを繰り返し――それからゆっくり閉じられたかと思うと、そのまま力が抜けたのか、くたりとラトラの膝の上で丸くなる。すう、と寝息まで聞こえてきた。――まさか、もう?
「……ルイエに術をかけたのか?!」
『怒るなってば。悪い夢じゃない。このオレ様が保証してやるよ』
ニヤリと魔獣が笑む。それからラトラに向かって『とうっ!』と跳躍してきたので、撥ね退けようとしたが、ルイエに当たりそうになり一瞬の躊躇が生まれ――気づけば、薄暗い場所にいた。
***
「どこが、悪い夢じゃないって?」
膝の上にあったはずの、ルイエのふわふわとした温かな感触は失われている。どこかの地下牢、といったところか。このまま目覚めるのを待つしかない。うんざりとしながら魔獣への制裁を考えていると、どこからか歌が聴こえてきた。――その歌声の主が誰か、ラトラにはすぐに分かった。
「――どういうことだ?」
地下は、静まり返っていて、その歌声だけがやけに響いている。その歌声に導かれるように進むと、粗末な松明の明かりが増え、他の牢よりも殊更がっしりとした牢が見えた。歌声は、その牢から漏れ聞こえてくる。
(……この、声……)
格子によって隔たれているが、牢の正面までやってきて、ラトラは自分の推測が正しかったのを知った。牢の中に閉じ込められているのは、ルイエだ。薄汚れ、ぺたりと冷たい床に座り込んで、それでも少し笑った顔で――どこか遠くを見ながら、歌っている。その表情に不安を覚えながら「ルイエ」と呼ぶと、ぱちりとはしばみ色の大きな瞳が、驚きで丸くなりながらラトラを見上げてくる。
その額には――ラトラがつけた、金色の契約の証が、あった。
「あれ……お客さま、でしょうか?」
力なく笑った、己の神獣。
まさか、とラトラの中で鼓動が早まっていく。
まさかこのルイエは――己との契約を無理やり解除され、王都を追われる直前の……?
「……ルイエ!」
「は、はい……!」
ルイエの大きな狐尾が、驚きで膨らんだ。まともな食事を与えてもらっていないのか、毛艶が良くないし、しょんぼりとしている。今すぐこの牢を破って、助け出さなければいけない。
(今なら、間に合う……!)
この当時のラトラは、高熱にうなされて昏睡しているから、役に立たない。
だが、ここから助け出せれば、この後ルイエが辿るであろう酷い道のりから救うことができる。
「ルイエ。この檻の鍵はどこにある?」
まだ驚いているかつてのルイエは、目を瞬かせながら自分の尻尾をかき寄せ、抱きしめている。それでも、立ち上がってラトラのすぐそばまで、やって来た。
「あなたは……」
細い指が、格子を握りしめる。その手を覆うようにラトラが触れると、またはしばみ色の瞳が瞬いた。
「何とかして、ここからお前を助ける」
また、驚きでルイエの狐耳が動く。その頬に己の手のひらで触れると、ルイエは小さく笑って頬をすり寄せた。
「ありがとうございます。最後に、嬉しい夢を見られた」
「最後、じゃない」
鍵を差し込めば開く。見張り兵が鍵を持っているのかもしれないが、見回りの時間ではないのか、人の気配ひとつしない。
「――でも、おれはここにいなければなりません。おれの、大事な主を……愛しい人を、助けるために」
「それでお前の主は、自分の愛しい神獣を失うのに……?」
ここにいるのは、やはりあの頃のルイエだ。美しい神獣は困り顔で微笑みながら、頬にさし伸ばされたラトラの手を、そっと外す。
「おれにとって、ラトラ様が全てなのです。あの方を喪えば、おれは……神獣ではいられないでしょう。この国を呪い、滅ぼす」
「……ルイエ?」
子どもの頃。契約を交わした、最高位の神獣だった『ルイエ』は幼い頃から一緒で、いつも穏やかに笑っていた記憶が強い。いつになく強い眼差しでそう言い切ると、とうとうラトラの手を格子の外へと押しやった。
「ラトラ様を取り巻く人間たちが、おれに注意を向けている間に――おれを処して喜んでいる間に、おれの主を救う手は必ずやってくる。だから、おれはここにいます」
そろそろ見回りの時間ですからと、戻るようルイエが告げる。
それでも、離れがたかった。もう、このルイエに会えることは――きっと、ない。
「……ルイエ。お前は、必ずまた――お前の主に、『ラトラ』に出会うことができる」
言葉を続けようとしたラトラの視界に、驚きからみるみる満面の笑顔に変わっていくルイエが、見えた。
「……ラトラ様の記憶を失っても……おれは、迎え入れてもらえるでしょうか?」
「当たり前だ。『ラトラ』にとっても、ルイエは……唯一無二だから」
やった、と小さくルイエが微笑んだ。
それから、急激に視界が歪んで、ラトラは覚醒した。
すでにオコジョ姿の魔獣は消えている。
ラトラが目を覚ました気配がしたからか、膝の上ですぴすぴと寝息を立てていたルイエも大きなあくびをして、はしばみ色の瞳を瞬かせた。まだ眠そうではあるが、口許が笑いのかたちになっている。
この傷だらけの身体で必死に生きてきた、愛しい――半身。
「嬉しそうだな、ルイエ」
『はい! ラトラ様とフィトとおれと、ゾフィさんと……みんなでお出かけする夢でした! そうしたら、伝説級の薬草を見つけて、ゾフィさんのお菓子を食べながらラトラ様と調べて……』
それでは、日常とあまり変わらない気がするのだが。今が良いとルイエが思ってくれている、ということなのだろうか。
『あれ? ラトラ様、……泣いていました?』
慌てふためいたルイエが、ぐりぐりと自分の頭を寄せてくる。ふわっとした、柔らかい毛並み。
ルイエは確かに今、この手の中にある。
その温かな体を抱きしめると、くふ、とくすぐったそうにルイエが笑う気配がした。
Fin.