「主上が無理難題を仰せだとか」
「またか。今度は何であろうな」
宿直をしている者たちが、嘆息交じりにうわさ話を始めた。かぐや姫が月へと帰ってしまった後のこと。かの姫と心を通わせていた帝は表面上取り繕おうとしているものの、嘆きは隠せなかった。
姫を大切に育てていた翁たちも病に伏している中、大切な者を失うということを正しく理解した御行には、畏れ多いけれど帝の心情も分かるつもりでいる。だから帝が姫が出したものよりはずっと易しい難題を言う度に、御行は自ら名乗り出てはあちこちへと足を向けた。命の危機に瀕したらどこからか橘が助けに来てくれるのでは――そんな下心を抱えながら。しかし悪運だけは強いらしく、多少の怪我程度でいつも帰ってくることができてしまった。
「何でも、今度は海を越えた先にある島に、一つだけ願いを叶えてくれる海亀の何とやらがあるとか。だが、そんなところに行って無事帰って来た者はいないそうだ」
げに恐ろし、とひそめき続ける同輩たちの話を聞きながらも、御行は仕事の手を止めない。御行は帝の無理難題に付き合いながら、以前にもまして仕事にも打ち込んできた。しかし、この頑張りは昇進のためではない。いつ御行の一の従者が帰ってきても胸を張って迎えられるようにと努力してきたのだ。この宮中で仕事をこなしたり、多少都の近郊をうろつくくらいでは、まだ足りない。次の日、御行は帝から海亀の何とやらを探しに行く大役を授かった。
『龍神に泣きついて、ようやく帰って来られたのに』
身内からも呆れられながらも、立派な船に乗って御行は陸を離れた。以前と同様に陸が見えている間は波も穏やか。そして、外洋へと乗り出した途端に揺れの大きさが変わる。初めて外洋の波を知った時の自分を懐かしく思いながら、波濤を見つめていた。そんな御行の頬に、波ではなく雨粒が降りかかってきた。
「……嵐だ」
荒れ始めてからも、乗り手の腕が良かったためにしばらくは耐え続けたが、船の中心に落ちた雷から火が出てしまってはもうどうしようもない。
「なるべく、大きな板に掴まるのだ! 荷は諦めよ!」
大きな船には多くの人が乗っていた。あらん限りの声で呼びかけ続け、溺れかけている者には板を渡してやる。以前はただ狼狽するだけだったが、死を恐れなければ冷静に状況を判断することができた。泣き叫ぶ婦人を比較的大きな板へと押し上げたところで、助けが必要な者には大体板を渡すことができたと思ったが、あと一人、老爺が静かに溺れかけていた。
「そこの翁、この板を使うのだ」
自分が使っていた板に老爺を掴ませる。重くなっていく体を叱咤しながら、自分の板を探し始めた御行を待ち受けていたのは、非情な波の牙だった。御行めがけて来たのかと思う程激しくぶつかり、息継ぎも許されず波と波の間に閉じ込められる。
(もう一度、海面に向かうのは……無理そうだな)
自分でも思っていたよりもずっと、気力を振り絞っていたらしい。体はもう自由に動かすこともできず、御行の体は深い水底へと沈んでいく。こうなったら、どれだけ早く意識を失えるかだ――死を覚悟したせいか、不思議なことにもう、苦しみもない。
(ああ、ほら……)
沈んでいくばかりだったはずの御行の体が、何者かによってぐんぐんと海面に引き上げられていくのは幻覚だろうか。その姿を――龍の姿をした橘を、御行は以前にもこうして間違いなく見たことがあった。
橘。
声なき声でその名を口にすると、龍がこちらを振り向いた気がした。
***
自分でも驚くくらい、静かに目が覚めた。
見慣れぬ天井。しかし、きつく自分の手が握り締めている先にあるもの。御行は笑いたいのに、涙も一緒に溢れてきてしまって慌てた。
「我が君。泣いておられるのか? ……痛むところがおありか」
いつぞやに時が戻ったかのように、少し焦りを含んだ橘の声が御行に尋ねてくる。あの時と違うのは、やはり橘の姿は龍神のままであるということくらいだ。
「……儚くなりかけたら、絶対に来てくれると思ったのだ。私の勝ちだぞ、橘。今までお前がいなくても、私なりにこれでも頑張って来たのだ……だからもう良いだろう? 一人は嫌だ。私は、橘が龍でも鰐でも何でも構わない」
涙が浮かんでいては格好がつかないけれど。それでも、寝台の上で必死に言い続けると、ずっと遭いたかった男が小さく笑うのを見た。たったそれだけで、御行の心が満たされていく。ほくほくとしていると、男の顔が思った以上に近づいて、口づけを落としていった。
「……龍が番った相手もまた、龍になるとしても――ですか?」
「龍になったら溺れなくて済みそうだな! あんな苦しい思いは、さすがにもう懲り懲りだ」
御前というお方は、と橘は少し呆れながら笑って――ゆっくりと自身に覆いかぶさってくる。御行はいつになく体をぎこちなくなるのを恥ずかしく思いながらも、愛しい男を満面の笑みで迎え入れるのだった。
帝の遣わした船は大嵐に遭い、指揮をしていた若い貴族だけが都に戻ることはなかった。しかし、その貴族と同じ船に乗っていたという者たちは口々にこう言ったという。
『尾を絡ませた番いの龍が、我らを陸まで見送ってくれた』
――あの方こそ、龍の片割れであったのだろう、と。
【了】
<初出:物語の脇役アンソロジーに寄稿>