夜渡る月の惜しからざりし - 1/2

「龍の首に光る、五色の珠……ですか?」

 うむ! と、大納言――大伴御行は機嫌よく頷き返した。御簾越しではあるものの、ずっと恋文を送り続けてきた姫との対面をようやく許されて、御行は帰宅の途についてもずっと浮かれに浮かれまくっていた。
一の従者である橘が、御行の話に呆れ顔になり始めている。しかし、御行も自分が得たばかりの契機に興奮するのを止められないでいた。

「なんと、かぐや姫から試練を与えられたのはたったの五人であったのだぞ! 私の想いを姫に試していただく契機を得られたのは僥倖。それでだな、橘。なんでも、海を越えた先に龍が住まう地があるというのだ。見事、五色の珠を龍の首より持ち帰ることができれば……今世一番と誉れ高いかぐや姫が、なんと私の……つつつ、妻に!」
「我が君。龍は、そんな珠など持っておりませんよ」
 自分で求婚を申し入れているのに、妻という言葉にいちいち照れてしまう御行だったが、従者からの諫言に「む?」と、まだ少年ぽさの残る顔立ちで従者を見やった。

「橘、しかしだな」
「我が君。ちなみに、他にはどのような試練がありましたか」
 ええと、と御行は細い指を折り始めた。幼い頃は病弱だったこともあり、肌は白い。整った顔立ちをしている上に、目がきらきらとして大きいので、御行が男だと分かっていても宮中には懸想する者もいるという。しかし、当の本人はそんな熱い視線に気づくことなく、当代きっての美女と謳われるかぐや姫の興味を引こうと必死である。
「私に与えられた試練の他は、蓬莱の木の枝、火鼠の皮衣に……燕の子安貝、それから仏の御石の……ええと、硯だったか鉢だったか、とにかくそのあたりのものだ。私に与えられた試練が一番格好よかろう?」
しかし、彼の一番の侍従である橘は分かりやすく嘆息を漏らした。
「仏の御石の鉢、ですね。なるほど、姫は大層教養のあるお方なのでしょうが……俺には、すべて存在しえない物に思えます」
「だが、龍はいると橘が前に言っていたではないか! 龍の好物をたんまりと持って龍に直訴すれば、貸すくらいしてくれるのではないか」
 ぷう、と御行の近くで他の従者が笑いを堪えきれず変な音を出した。「ようし!」と張り切って御行が従者たちに命じたのは――『早速龍より五色の珠を借りてこい』だった。

***
「橘、おかしいぞ。もうじき姫との家が建つというのに、一向に従者たちからの便りが来ない」
 先祖から受け継いだ邸宅はそろそろ痛んできていて、野分が来たわけでもないのにあちこち修復が必要だ。いくら土地が広いといえど、美しく若い姫君を迎え入れるのに相応しいとは思えない。使用人たちを数人龍の珠探しに派遣してから、いっそ建ててしまえとすぐに家を建て始めた。その家が、もう間もなく完成してしまう。
「……まさかとは思いますが我が君。使者たちにたっぷりと路銀をくれてやったのでは」
「もちろんだ! 橘は報告の度に与えよと言ったが、それでは心許なかろうと思ってだな」
 得意げに返した御行だったが、橘の端整な面立ちが曇ってしまった。橘こそ大貴族の子息だと言われてもおかしくないほど立派な長躯と男前な顔立ちをしていて、とにかく機転の利く男である。御行が幼かった頃に拾って以降、大伴家以外からも橘が欲しいという声は多いのだが、何故か橘は律義に御行に仕えてくれていた。

 拾った、というのも本当は少し違う。父親について行った龍神詣りの途中で、野兎を追いかけていたら供とはぐれてしまったことがあった。黄昏時に狼の群れに囲まれ、泣きべそをかいていた御行を助けてくれたのが橘だった。御行のことを探しまくっていた供たちのところまで連れて行ってくれ、御行が「一緒に来て」と言ったら都まで付いて来て――それからずっと、橘は御行の一番の従者だ。他の従者たちは大伴家に仕えている、ということくらいは若い御行にも分かる。だから、橘だけが唯一の自分の従者なのだ。

「……残念ですが我が君。恐らく、彼らはもう戻らないでしょう。当分遊んで暮らせる程の金があるのに、わざわざ死にに行くことなどふつうの人間はしませんので」
 冷静な橘の話を聞きながら、むう、と御行は考え込んだ。確かに、御行がどれほどかぐや姫に本気であっても、他の使用人たちにとっては命を賭すことではないのかもしれない。
「そうだな、橘! 分かったぞ、私の本気を姫にも分かってもらうには、この私自ら行かなければならなかったのだ。よし、今から船の手配をするのだ!」
「……一応お尋ねしますが、お止めしたら……聞いて頂けますか?」
 いや、行くしかなかろう! と御行は意気込んで答えた。

***
 金を使えば船は容易くつかまえられた。一人で行く覚悟だと言ったのに、やはり橘は付いてきた。橘は龍の首にあるという五色の珠のことを信じていないようなので、連れて行く気はなかったのだが。そんな御行が意気揚々とした気持ちでいられたのは、船が外洋に出るまでだった。
「……たちばな。こ、こんなに揺れて……うう、この船が壊れたりは……ぐえっ、……しない、のか?」
「嵐が来たら壊れますね」
 すげなく答えた橘だが、先ほどからずっと御行の背をさすり続けてはくれている。中にいるのも恐ろしい気がして、甲板に出ているのだが、船が進めば進むほど、波の高さは甲板に上がるくらいまでになっている。陸が見えている間は、それこそ物見遊山の気持ちでいられたというのに。
「……まずいな。嵐が来ます」
「え? 波は高いが、晴れているぞ?」
 中へ、と無理やり連れて行かれた少し後。御行は橘の言うことが正しいことを知った。自分が乗り込んだ船はあまりにも頼りなく嵐によって揺れ、叩きつける雨と大波によって浸水が始まった。そんな御行たちに止めを刺したのは――紫の光を放つ雷電がこの船に落ちたことだった。
 海に投げ出されて取り乱した御行に、船の一部だった板の切れ端を渡して助けてくれたのは橘だった。御行の従者はよほど泳ぎが達者だったのか、今にも溺れ沈みそうな他の乗客たちを見つけてはどんどんと助け上げていく。その様子を震えながら見守っていた御行に襲い掛かってきたのは、牙を剥いた白波。再び何も掴むものがない海の中へと引きずりこまれた御行が最後に見たのは――龍の、幻だった。

***
 次に目が覚めた時、御行は自分が生きていることにまず驚いた。あまりにも苦しくて、呼吸ができなくなったことまでは覚えている。
「……たちばな?」
 掠れてはいるが、声もちゃんと出せた。まだあの大波の中で揺られているような、嫌な感覚は残っているものの、無事だった。調度の整ったこの部屋に見覚えはないが、どこかの貴族の家なのだろうと見当はつく。
「たちばな! いないのか、橘……!!」
 上体を起こすと頭がずきりと痛んだが、そんなことは気にしていられなかった。自分と一緒に荒波に投げ出された己の従者の姿が、見えない。単衣のまま、寝かされていた寝台から這い出たところで、小さな膳を運んできた橘が現れた。
「我が君! まだ無理をされてはなりません」
「ばかもの、橘が傍にいないから! 私は心配して……とてもとても、心配してだな」
 心配したのはこちらですよ、と橘が苦笑する気配がした。膳を近くに置いた橘が、ひょいと御行の体を横抱きにする。他の従者であれば勝手に触れるな、と怒るところだ。しかし、大伴の家に橘が来た時からずっとこういった感じなので、憮然としながらも御行はされるがままになり、寝台へと戻された。
「我が君の熱がずっと高いままで、意識もお戻りにならないので心配しておりました。……我が君、泣くほどお辛いところが?」
 いつになく橘の話し方は穏やかで、優しく聞こえる。あの恐ろしい嵐の中からどうやって助かったのか、もはや想像することしかできない。しっかりと一の従者である橘の上衣を握り締めながら、「目が覚めた時に橘がいなかった!」と御行は自身でも理不尽と分かりつつ、泣きながら怒った。
「橘も、あの荒波に飲まれてしまったのかと思ったら……怖かった。勤めていれば財産の類はどうにかなっても、私が選んだ従者はお前だけなのだぞ。橘は、絶対に私の側を離れてはならないのだ」
「御前の意のままに」
 八つ当たりでしかない御行の言葉にも、橘はいつも通りの口調で返してくる。
「して、龍の首の珠はいかがなされるのです。まだ、探しに行かれるのなら船を探して参りますが……」
 淡々とした橘からの問いかけに「もう良い」と御行は横になり、橘から顔を背けた。
「我が君。もう良いとは」
「いらぬ、ということだ。姫の言う通り、龍の首に五色の珠が光っているのだとしても……あの恐ろしい嵐はきっと、私の愚 かな企みが龍の怒りを買ったためであろう。それでも、龍は私たちを助けて下さった。そんな幻を見た気がするのだ。……私と橘が無事であったのだからそれで良い」
 いると言ったり、いらぬと言ったり。さすがの橘も、呆れているだろう。悄然としながらちらりと橘を見やると、御行の従者は驚いた顔でこちらを見ていて――「そうですか」とだけ言って微笑んだ。

***
『龍の珠探しに行った大伴の大納言は、嵐に遭って命からがら帰って来たそうだ。己の命の方が大事だからと、かぐや姫への求愛を諦めたとさ』
 しばらくはそんな風に揶揄われていた御行だったが、かぐや姫の求婚に失敗した四人目ともなれば噂が過ぎていくのも早い。五人目も失敗したらしいという噂が耳に入っても、帝がかぐや姫に求婚していると聞いても、何の驚きもなかったのだが。
「橘、聞いてくれ! 姫が、なんと自分は月の住人だと主上に申したそうだ!」
 己の一の従者である橘に、つい今しがた宮中で聞いた話をしても、相変わらず御行の従者は驚くということをしない。思えば、橘が驚いた顔をしたのは船が難破してしまい御行が目を覚ました時に些細なやり取りをした時くらいだ。
(あの時は、そもそも何に驚いて笑ったのかちっとも分からなかったが)
 それよりも、帝の一大事である。
「それでだ。勅命にて、月の使者たちを阻止することとなった」
「我が君も、ですか? そのようなこと、武官たちにやらせておけば良いのでは」
 橘が、いつもよりも渋る素振りを見せた。しかし、御行の一存ではどうしようもできないことは当然橘にも分かっている。着々と準備の指揮を執り、当日も何故か橘は付いてきた。
「本当に、月の使者が現れるとは」
 戦う気力を奪われ、夜渡る月のごとくかぐや姫が在るべきところに帰ろうとするのを、ただ見守ることしかできない。恐ろしいくらいに美しい光景が夜空に照らし出される中、御行は橘が近くにいないことにふと気づいた。いつも側にいるせいで、いない方が不自然なのだ。帝を始めとして、人々はみな夜の空に繰り広げられる光景に心を奪われている。御行はそっと自身の持ち場を離れると、従者の姿を探した。
(なぜ、主人である私が探しに行かなければならないのだ)
 そうは思っても、今まで橘が御行の側を離れたことなど、宮中などを除いてはただの一度もなかった。そんな橘が御行の側を離れたというのは、余程のことがあったのだ。今いるのは竹取の翁の家の周囲なので、離れる理由にならない。並み居る武官たちの最後尾のあたりにいたので、御行が抜け出すのも容易い。ほどなくして、別な貴族の邸がある方へと去りゆく影を見つけた。

「あやつ、何を考えているのだ」
 武官たちに負けない屈強そうな長躯。橘で間違いないと御行も別邸の塀の陰に駆け込むと、「それ以上は、近づかぬよう」と低い声がした。
「聞かぬぞ、橘。そこにいるのだろう? 何故私から離れた!」
 約束したのだ。橘だけは、自分の側から離れてはならないと。しかし、夜空を煌々と照らす月の使者たちの明かりのせいで、橘がいる場所はより暗く感じる。
「我が君。この姿を、御前に見せる訳には参りませんので」
「どんな姿だというのだ。私が怯むとでも?」
 行き止まりになっているお蔭でようやく橘の腕を掴むことができた。しかし、衣越しなのにその腕がやけに硬く感じられて、御行は目を瞬かせた。背の高い御行の従者は、いつも膝を折って主よりも頭を低くしていたので、今ほど身長差を感じたことはない。段々とこの場所の暗さにも目が慣れて来た時。見覚えのないものが、己の従者の頭に生えているのを御行はしっかりと見た。耳は異様に尖っていて、その頬や首の一部には、僅かな光を放つうろこすらある。

「龍の……角? 橘は、龍だったのか……?」
「……ええ、そうですよ。だから申したでしょう。龍の首に、五色の珠などないのです」
 龍は、水を司る神だ。そんな崇高な存在が、人の姿を真似てこれほど近くで、長い時を一緒に過ごしていたなどと俄かには信じられない。呆然と立ち尽くす御行に、暗闇で男はひっそりと笑った。そうして、今度は橘の方から近づいてくる。清廉な気配――今まで纏っていた従者の衣服から、それこそ龍神に相応しい装飾と長衣に衣装も変わっている。衣冠を付けない漆黒の髪は高い位置で結わえられており、御行の知る橘とはまるで別人である。それでも、彼が浮かべる表情は間違いなく、御行の一の従者である橘のものだ。

「我が愛しの君。自分も人ならざる者……あの月の使者たちがもたらした光りのせいで、当分は今までの姿には戻れません。御前の側にいることはもうできないのです」
 勝手についてきたくせに、勝手なことばかり言う。文句を言おうとした御行の口は、温かなもので塞がれてしまった。御行の唇を奪っていたのは橘からの口づけだったのだと知った時にはもう、橘は御行から離れていた。
「……御前を救ったあの日から、目を離せないでいたのですが……長く側にいるうちに心まで奪われてしまった。御前に勝手に触れたことを、どうかお許しください」
「お前が……橘が私に許しなく触れてくるなど、いつものことではないか! ももも、もっと、私に触れたら良いだろう!! 私は橘の本当の姿が龍だと言われても、ちっとも驚かないぞ!」
 実は。あの大嵐で意識を失いかけた時に、もしかしてと一瞬思ったことはあった。それに、異形の姿を露わにしていても、橘の笑い方は変わらない。いつも世間から烏滸だと笑われる御行に呆れているだろうに、それでも御行のことを想ってくれていることが分かる、穏やかな笑み。こうなったら御行の方から捉まえておくしかない、と身構えたその時。一段と夜空が明るくなった。そちらに気を取られた御行の頬を、優しく風が撫でていく。慌てて視線を戻した時には――もう遅かった。

「たちばなっ……! 私との約束は……」
眩いばかりの夜空。その影が落ちる場所を、風となって飛び去っていったのは。見事な黒色の龍だった。