「やっと到着しますね、テア様」
侍女の一人であるコレットに微笑みながら話しかけられ、そわそわとしていたテアはそんな自分を見られていたことに恥ずかしくなり、顔を赤くした。
ゼクスと共にモンフォワ家が治める南領で生活することが決まったテアだが、ゼクスは南領の様子を確認すると言って、先に出立してしまった。南領に問題がなければ、テアを迎えに来ると言っていたものの。置いて行かれたテアの落ち込みぶりを見たコレットやリュエットたちが、あちこちに掛け合ってくれて、こうしてゼクスを追いかける旅をしてきた。
ゼクスは、一度テアの前で毒に冒されて生死を彷徨ったことがある。離れることの不安を上手くゼクスに伝えられなかったことにも落ち込んでいたのだが。
「……コレット。ゼクスを追いかけようって言ってくれて、ありがとう……です」
「ご主人様も、本当はきっと……テア様と一緒に、南領に入りたいとお考えだったはずですから。陛下にもご協力頂けましたし、何とも心強い旅路ですね」
そう。実は、南領に向かうためのこの旅はこの国の王であるイグナハートが一緒だ。王の巡幸の同行人として、しっかりと王の騎士たちに守られながらの旅は確かにどの方法よりも安全である。
南領に向かうには、馬車を使うことが多いが、途中で船に乗り川を渡ることもある。旅をしたのは初めてではないが、檻の中や手錠をかけられているわけではなく、この身体だけで見知らぬ景色に触れながら旅をする心地よさに――そして、ゼクスに一歩一歩近づいていることにテアは内心ほくほくとしていた。順調に南領第一の街に到着し、今日はここで一泊することを告げられる。王の巡幸に人々はお祭り騒ぎで、街のいたるところが花で飾られ、とても良い匂いがした。
「テア様、今夜はこちらのお部屋にを使うように、とのことですよ」
「その前に、陛下がたが一緒にお食事をと」
テアの侍女たちや王の侍従たちと、人々が忙しなく動き回っている。王の一行が身を寄せたのはこの辺りを治める貴族の屋敷だ。コレットたちの手によってアストレア族の正装に着替えさせられたテアは、もう一人の侍女であるリュエットに付き添ってもらいながら廊下を歩いていた。今夜の衣装は、いつにも増して装飾品が多く、まだ少しぎこちないテアの動きに合わせて涼やかな音を立てている。
「テア! なんて美しいの?!」
女性にしてはやや低い声に迎え入れられて、テアは照れた。イグナハートの隣に座っていた、凛とした顔立ちの美しい女性――王妃は、自らテアを迎え入れてくれた。王たちが臨席する場というにはくだけた雰囲気だ。この屋敷の主だという貴族の男もにこやかにしていて、テアは思わず付き添っているリュエットを見やる――が、リュエットも驚いている。
王妃は双子の男児を出産して正妃となったが、異種族であるテアのことも、『自分はテアの義姉だ』と言っていつも可愛がってくれている。今回は産後初めての遠出ということもあり、イグナハートたちとはこの屋敷で別れる予定だ。早ければ明日にでも、モンフォワ家からテアたちの迎えが来てくれる手筈まで整っているという。
「テア。こちらにおいで」
イグナハートにも呼ばれて、テアは恐縮しながら近寄った。
出会った頃は王や王弟であるゼクスの身分の高さなんて理解するつもりもなかったが、自分がそうではゼクスが恥をかくかもしれない、とようやく自覚してきた。かといって、ゼクスを始めとして、今、テアがいる場所はとてもテアに甘いと思う。少しでも粗相をしたら折檻を受けるのが当たり前だった世界から、本当に遠く離れた場所に来たのだな、と思う時がある。
テアの大好物である果物も、南領ならではの色彩豊かなめずらしいものもあり、果実酒も甘くて、じんわりと心地よくなっていく。
「知っていたかな。二年前の今日、君はゼクスに出会ったことを」
唐突にイグナハートに声をかけられて、テアはニコニコとしながら果実酒を飲み進めていたのを止めて、小首を傾げてみせた。
「……きょう? そっかあ……えへへ、ぜくすったら、ですね、……とっても、おんちで……」
「陛下。テアにお酒を飲ませ過ぎです。……テア、大丈夫?」
王妃――ヴェロッテに心配げな声をかけられても、テアは思い出し笑いが止められなくなってきてしまった。
「でも……ぜくす、はじめてあったとき……おれを、ぶったりしないで……ただ、だきしめて……くれた、です。はじめてあったとき、から……ぜくす、だいすき――」
心地よい酩酊感に、まぶたが重くなってくる。行儀が悪いと思う自分は消滅していた。「聞いたか、ゼクス」とイグナハートが楽し気な声で言うのを聞きながら、テアは深い眠りに落ちていった。
***
「……ん、おみず……」
「水か? ――口を、あけて」
大好きな声。まだ夢心地のテアは、ふふ、と微笑みながら小さく口を開いた。そこに冷たい水が流れ込んできて――ぬるりとしたものも、滑り込んでくる。テアの口腔を犯す勢いで侵入してきたそれに、テアも応えようとして必死になった。しかし、酔いがまわった状態では長くは続かない。苦しくなって小さく喘ぐと、ようやく解放されて――テアは、のんびりと目を開いた。
「……あれえ。ぜくすだあ……あのねえ、ぜくすのゆめ、みているみたい」
「幼い子どもみたいだな」
苦笑した夢の中のゼクスに頭を撫でられて、テアは嬉しくて笑顔を返す。それを見たゼクスが、一瞬動きを止めた――気がした。
「ぜくすからはなれているの、すごくいやだった。ゆめでもあえて……うれしい、です。――もっと、おれに、さわって……ください」
ゼクスの手。心地よくて、その手に触れようとしたところで、額に温もりを感じる。ゼクスに口づけられたのだ――そう思うと、幸せでいっぱいだった。
「……夢ではないのだがな」
苦笑する気配。とても幸せな夢だ。果実酒のせいか身体が火照っていて、醜い背中を覆い隠すための外套は、とっくに脱がされていて。背中を向けさせられ、翼がかつてあった敏感なその場所に口づけられて――テアは、喘いだ。
***
「……あっ、ああああれ?! ぜ、ゼクス……?!」
心地よく揺れる馬車の中で目を覚ましたテアは、自分が枕にしていたものの正体に気づいて目を丸くした。出立するのを見送った時と同じで、金の髪は短いまま。本来なら王と瓜二つの顔――ゼクスだ。これは、一体。
「南領に入ったのを聞いて飛んで迎えに来た。離れているのを寂しく思うのは、テアだけじゃない――私もずっと、生身のテアに触れたかった」
すっかり果実酒の甘さに騙されて、相当な量を飲んでしまったに違いない。そうじゃなければきっと、もっと早くゼクスが隣にいたことに気づけたのに。
「あの、イグナ……陛下たちは?」
「さあな。テアを見たら堪えられなくなって、連れ去ってきてしまった――と言ったら、どうする?」
えええ、とテアが慌てふためくと、『本物』のゼクスが声に出して笑い始めた。
「冗談だ。陛下たちにはちゃんと挨拶を済ませている――音痴の、私が。すぐにまた、陛下たちにも会えるだろう」
「ま、まさか……」
昨晩、ゼクスについて自分の感情をぶちまけたのは、なんとなく覚えている。そこから、あのたっぷりとした甘い夢にシフトしたのだとばかり――思っていたのに。
「…………俺はいま、猛烈に恥ずかしい……」
翼の名残を震わせていると、服越しにゼクスがテアの背中に顔を埋めてくるのが分かった。
「……テアと共に、行きたい場所があるんだ。その前にもう一度着替えて、髪も整えなければ」
ゼクスの穏やかな声。
そう言って車窓から見える光景を、テアの番いが指をさして教えてくれる。
「あれは、誰かの結婚式? 花がいっぱいで、綺麗だな」
「さあ、着いてからのお楽しみとしておこう」
笑顔のままのゼクスに連れられて行った先――それが自分の結婚式であったと、テアが知るのは、この後すぐのこと。
Fin.