正しくつくられた犬神のお話

「なんという、醜い」
 自分を残虐な手法で生み出した主とやらは、そう吐き捨てるように言った。

 ――憎い。苦しい。
 憎くて、今すぐにでもその喉元に喰らいついてやりたいのに、身体は動かなかった。

「しかも、失敗か! まあ、良い。打ち返されたところで、我にまで呪詛が返ってくることはないのだから。……行け!」
 呪言とともに、自分が次になすべきことが頭の中に入ってくる。その通りに身体が動き出し、彼はあがいた。苦しそうに唸り声を上げながら四肢をよろめかせ、広い路地を掠め飛ぶ。

 大門を苦労して乗り越え、庭へと転げ落ち、その先で彼は主が呪詛する相手を捉えた。ぞわりと気持ちの悪い感触がして、人に似た異形へと己の姿が変わっていく。月の影にあってもなお、己の存在は暗かった。

「夜這いをするには、随分と物騒だな」
 男が、涼やかな低い声で笑った。この目にははっきりと、自分が祟るべき相手が映る。だが、そこにいたのは、彼が見てきたどの人間よりも容姿の整って美しい、背の高い男だった。
 そして、男には己の醜いだろう姿が見えているらしい。寝乱れた単衣を軽く整え、近くに置かれていた着物を掴み取ると、男はこちらに近づいてきた。こんな異形が現れたのに驚くこともないし、刀を振りかざすこともない。

「裸では、寒かろう。……さて、お前は犬神か。むごいものだな……人の姿をしている今のお前を見るに、まだ子犬であったろうに」
 男は、手に持っていた衣を己へとかけてきた。寒さは感じなかったはずなのに、そう言われれば秋風が沁みる。この男は呪うべき対象なのに、そして己の正体にとっくに気づいているのに。
 すっかりと衣にくるまれたところで、男に笑いかけられた。

「さあて。私もここでお前に殺されるわけにはいかないんだ。お前の主を教えてくれ」
 こういう人間が、己の主なら良かった。
「……おれの、あるじ……」
 頑張って言おうとしても、主の名を音にすることができない。自分は、そういう禍々しい存在なのだと我に返った。
「なるほど。お前をむごたらしく誕生させた術師は、慎重者のようだ。……だが、技量は足りないと見える」
 主の名がなくとも、姿が見えていると男はまた笑う。それからぼさぼさのままの己の髪に、手を伸ばしてきた。

「さあ、お前を自由にしてやろう」
 男の真似をして笑ってみようとしたが、自分の足元が脆く崩れた。この男への呪詛に失敗したら、己の身は消えるのだと悟る。みるみる間に人に似た姿は崩れていき、元の犬としての黒い前足が見える。段々と苦しみや、犬神として生まれた時に覚えた憎しみと飢え――怒りに全身を支配されていくのが分かる。この男にそれらを向ければ楽になるのだと。

 男にかけてもらった衣が、地に落ちたのを悲しく思った。
「……おれは、あなたのいぬになりたかった」
「そうか。なら、私のものになるか?」
 男は憐れむでもなく、笑いかけている。主と慕っていたあの男に埋められるまでだって、こんな風に笑いかけてくれる人間はいなかった。

 光だ。
 そんな存在を、あんな憎々しい主とやらのために自分の牙にかけるわけにはいかない。それで自分が溶けて消えても、恨みで最後に残った己の心を殺すよりも、ずっと素晴らしいことに思えた。

「なりたかったなあ……」
 男の真似をして、彼が消えそうな声を絞り出して笑いながら返すと、男は笑うのをやめた。己の力も振り絞り、人に似た姿へと変じたところで、男が己の前に片膝をついた。男の手が頬に触れてきて――それと共に、心が、凪いでいく。
「なればいい」
 うん、と返したら勝手に涙が零れた。
 そうして――心は、消えた。

「明満(あきみつ)様。また、そのようなお姿で……!」
 屋敷の中を探し回っていたらしい乳兄弟でもある従者につかまり、男――明満は視線を向けた。駆け寄ってきた従者は明満の着物を直そうとして、主が抱えているものに気づいたらしい。
「……ひっ、そのような穢れた衣、どちらから……?!」
「何でもない。それよりこれから先、この屋敷に来る者があれば必ず私に報告せよ。自分の目で見たい」
 はあ、と従者は目を丸くしながらも返事をする。
「もしかしてまた、妖だのなんだののお話でしょうか……?」
「そんなところだ」
 おそろしや、と従者が呟くのを聞かぬふりをして、ようやく晴れた雲間から顔をのぞかせた更待月を明満は見上げるのだった。

***

「明満様!!」
 いつぞやと同じ、雲間から現れた更待月を見上げたところで、明満は嘆息をついた。野分の被害が大して出なかったことまでは良かったが、秋も深いというのに内裏に雷が落ちた。そのせいで帝がすっかりと怯えてしまい、今日も夜まで祈祷を行う羽目になった。それが仕事とはいえ、見えないものの仕業ではないと説明しても、信じこんでいる者を納得させるというのは妖を祓うよりもずっと面倒である。

 ようやく屋敷に足を踏み入れたところで、寝ずに主の帰りを待っていた従者が慌てふためきながらやってきた。  

「お帰りなさいませ! 今日、今日ですね、お屋敷に明満様のことを尋ねてきた男子がおりまして」
「……男子?」
 はい、と従者は頷いた。
「冠も被らず、髪を取り敢えず結っただけのどこから来たのかすら分からぬ有り様でしたが、顔立ちが好ましくはっきりとした者でした。必ず報告せよとずっと前に明満様が仰っていたのを思い出しまして。……なんでしたか、衣の恩を伝えたかったと」
 衣。脳裏に、数年前にひと夜だけ逢瀬した犬神のことを思い出した。犬神は残酷な手法で生み出される恐ろしくも悲しい存在で、祓う力を持つ明満でも、まともに相手するのは難しい。
 しかし、まだあどけない少年の姿を取ったあの犬神はとても悲しみに満ちた眼差しをしていて、思わず声をかけずにはいられなかったのだ。
「して、その男子は?」
「先ほどまでずっと待っておりましたが、今日はもうお帰りなさいと帰しました」
 従者は悪くないが、せめてもう少し留め置いてくれれば。門へと向かい始めた主に、従者は「お待ちくだされ~」と悲鳴を上げたが、聞こえぬふりをする。

 門を開けさせたところで、びくりと震える影があった。

「――お前は……」
「や、夜分に失礼します。あの、今日はお暇しようと思って歩いておりましたら、布が……」
 大股で歩いていくと、影が一歩下がる。相手が誰にしろ、自分の行動は無礼になるだろうとは思ったが、その痩せた腕を勢いよく掴んでいた。月のお蔭で、目が慣れれば相手の顔立ちも分かる。従者が言っていた通り無冠ではあるものの、目は大きく、整った顔立ちをした若い男がいた。その顔。見覚えはあるが、あの時見えた禍々しい神としての暗い影はない。

「ここは冷える。帰る家はあるのか」
「ええと、大丈夫です。……おれは、貴方様にお礼をもう一度言いたくて。ただ、それだけだったのです」
 照れながら男が笑うと、数年前――一度だけ笑ったあの犬神のあどけない顔と重なる。
 我にもなくその髪に触れると、まだ少年かもしれない若い男は恥ずかし気に目を伏せた。触れれば、この若い男が人として純粋に生まれ変わったわけではないことを知る。犬神とさせられた犬は、絶命まで酷い苦痛を与えられる。それを綺麗さっぱりと忘れて、人として転生することは難しかったのだろう。
「……まさか良き神として現れるとは。お前は、本当に強い心の持ち主なのだな」
「えーと、ええと……? 強い、心とは」
 言われたことがいまいちしっくりこなかったのか、悩んでいる若い男。人から優しくされること、愛されること。褒められることすらも知らなかっただろうその耳に、その心にたっぷりと注いだら、どうなるのだろう。

「犬ではなく、私の家人になるか」
「かじん?」
 きょとんしているかつての犬神であった青年を抱え上げると、その思わぬあたたかさに男は我知らず笑みを浮かべるのだった。